表現の自由

様々な暗い事件、衝撃的な事件が起きています。色々な思いが沸き起こってきます。それらを語れば,際限がありません。ただ、「表現」に関わる事ですので、この事だけには触れておきたいと思います。

先週、シャルリエブドへのテロで多くの人々が亡くなりました。そして、再び掲載された風刺画に対し世界中で抗議のデモが起き、再び人命が失われました。

テロは残虐非道、言語道断です。「表現の自由」はテロに屈しない。多くの人々がそう叫びました。テロ対表現の自由、この構図になれば誰もが「表現の自由」を応援するでしょう。ただ、「表現の自由」の名の下に、ムハンマドの風刺画を掲載する事自体には、イスラム教徒はもとより、ローマ法王を含めた多くのキリスト教徒の間からも非難の声が上がっています。そして、僕も掲載自体には疑問を感じています。

「表現の自由」 この言葉が使われる時、この言葉には二つの側面があると、僕は思います。

一つは、信教や思想、言論の自由等とともに各個人が生まれながらに持っている根源的な権利。

そして、二つ目は新聞等のマスメディアが持つ権利。これは「報道の自由」と言った方が適当かもしれません。これら二つは明確に分離できるものではありませんが、それ故、二つの側面が曖昧に論じられる事が多い気がします。

二つ目の「報道の自由」という権利は、独裁国家や戦中の日本の報道管制等を考えてみれば、それがいかに大事であるかは疑いようのない事実です。そして、その権利 (もしくは使命)は現代の日本においても完全ではなく、それを守るために不断の努力も必要です。ただ、それはあくまで人民の権利や幸福を守るために必要な力であり、「報道の自由」それ自身のための力ではありません。この言葉をマスメディアの関係者が使う時、それが最上の価値であるかのように、僕には聞こえてしまう事があるのですが、この力は手段であり、目的ではないのです。それ以上に大事なものがある事を忘れてはいけません。

独裁国家等で、その権力に立ち向かい「報道の自由」を守る事は、それにより多くの人民の幸福や生命を守る事に繋がっていきます。ただ、今回の風刺画の掲載はそれとは少し違います。それを守る事により得られるものと失うもの、そして、掲載を自らの考えで止める事により失うものと得られるもの。それが権力に抗する「報道の自由」の場合とは、少し違うと思うのです。

また、新聞社に属する一個人、一個人が根本的に持つ「表現の自由」という権利を考えてみても、それが無制限に許される訳ではありません。フランス法の中にも、「表現の自由」においても差別や侮蔑は許されない、という規範があるようですし、ナチス関係やテロへのシンパシー等も厳しく規制されているようです。それでは、今回のムハンマドの風刺画が許される範囲であったかどうか。それはなかなか難しい問題です。西洋的な価値観に依るかイスラムの価値観に依るか、それに依って大きく違ってきます。ただ、多くの(しかし弱者である)自国のイスラム教徒が不快感を抱き、多くの国民が不適切と考える今回の風刺画が、はたして許される範囲であったかどうか、僕には疑問です。

長い歴史の中で「表現の自由」を勝ち取ってきたフランス人のエスプリは、日本人にはなかなか理解出来ないものかもしれません。ましてや、テロを受けた出版社の人達の怒りは計り知れないものでしょう。ただ、この負の連鎖を続けていって、失うものの大きさと得られるものとを、冷静に比較する必要があるのではないでしょうか。

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