数寄屋と聞くと誰もが思い浮かべるのは、京都の高級料亭のような上品な和風建築でしょう。骨太で格調高い武家屋敷や素朴で土着的な民家とは違う繊細で洗練された優美な日本建築です。
本来「数寄屋」という言葉はわび茶の茶室を指す言葉として16世紀末頃に生まれたものですが、その後そんな茶室風の建物にも使われるようになってきたものです。武家屋敷や寺社建築などの格式の高い伝統的な「書院造り」を「真」と見做し、「数寄屋造り」を「行」や「草」と見做すこともあります。
そんな数寄屋建築には有名無名を含め多くの名建築が存在しています。その中でも僕が過去に直接見ることができたものの中で代表を選べと言われたら、僕は「佳水園」を選ぶかもしれません。格式張らず、崩し過ぎず、素材を生かし、曲線に遊ぶ、この優美な京都都ホテルの「佳水園」はまさに数寄屋のお手本のような建築です。ただ、僕が強く印象に残っているのは実はこの名作ではなく、これを設計した村野藤吾本人の自邸です。ここには「佳水園」の中の「月の間」という座敷の習作ともいえる和室も存在しています。この住宅を今まで述べてきたような文脈で「数寄屋」と呼ぶのは少し違うと思いますが、今は無きこの住宅に深い感銘を受けたのです。
この住宅はもともと農家の離れだったものを村野が移築し、亡くなる直前まで改築し続けた建築です。そのため、外観は素朴な民家風であり、内部にも様々な様式が混在しています。レンガ張りの暖炉、アーチ状の天井、歪んだ野太い柱、そして「佳水園」の「月の間」に写された和室。(実は、この和室そのものも有名な残月亭の写しなのですが...)これらの様式の混在はここが自身と家族の現実の生活の場であり、しかも彼の建築創作の実験場でもあったためだったのでしょう。僕がこの住宅に深い感銘を受けたのは多分その数寄屋の部分ではなく、民家風の部分でもなく、ましてや洋風の部分でもありません。それはひとりの偉大な建築家がここで建築と共に生きた息吹のようなものを感じたからだと思います。この感覚はルイス・バラガンの自邸を見た時に感じたものと同じです。一人の建築家がほんとうの自分の「好み」を出し建築と戯れ、そこに生きた。そんな生々しさを感じたのです。
その意味で、村野藤吾の自邸は建築の美を愛でた「数寄者」が「好み」を追求し遊んだ、本当の「数寄屋」だったのかもしれません。
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