「間」という概念は様々な世界で見出す事が出来ます。
邦楽等の音楽の中に、落語や漫才等の語りの中に、能や歌舞伎の動きの中に、これらの中にも「間」という美意識は存在します。これらが時間的な間であるなら、雪舟や等伯の水墨画や本阿弥光悦の書に感じる間は空間的な間と言えるでしょう。間に感じる美意識は余白に対する美意識です。それは全て何も無い余白ではなく、要素が存在する時、その横にある余白です。あるものがあるからこそ、その横の余白が意味を持ち、その存在感が表出するのです。あるものと無い部分の関係性の中に生まれる違和感や緊張感が「間」に対する美意識の本質だと思います。この「間」に対し特に日本人は鋭い感性を持っていると思います。それは小さな島国の中で「濃く」「整然と」「はっきりとした」西洋とは違う、「淡く」「微妙で」「曖昧な」日本独特の空気感や文化の中で育まれてきた感性なのでしょう。
建築の世界の中でも「間」という言葉は使われます。間柱や間口のように物と物との間(アイダ)を表したり、「〜の間」のように部屋(空間)そのものを表す時にも使われます。ただ、建築空間を思考する時「間」に対する美意識を意識する人は少ないでしょう。僕も同じです。「侘び寂び」という言葉を意識することはあっても「間」はありません。しかし、今回改めてこの言葉を意識して自分を見つめ直すと、無意識のうちに「間」に対する美意識が心の奥底に潜んでいる事に気付きます。要素を削り落とすミニマルに、完全体ではないアンシンメトリーに、明快でない曖昧さに、、僕が魅力を感じてしまうのは、それらの中に余白(間)のようなものを感じ、その緊張感を見出しているからなのでしょう。それは多分僕の中の日本人の血のせいなのでしょう。
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