にー庭(2)

イメージ画像1

どんな庭が好きか?そう聞かれたら僕なら「ミニマルな庭」もしくは「作為性を感じない庭」そう答えるでしょうか。

「ミニマルな庭」といえば、最もポピュラーなものは龍安寺の石庭でしょうか。要素を極力排し石のみとなった庭は禅宗の思想が根底にあるものの、そこに究極の美意識を感じてしまいます。そこにはルイスバラガンやジェームスタレルの中庭にも通じる静謐なものを感じます。「ミニマル」というだけなら現代建築の中にある多くの庭もそう言えるかもしれません。それらは要素を排したフラットな場所に木を一本植えるだけで完成するため経済的で、しかもシンプルな現代建築によく似合います。ただそこに龍安寺の石庭のような深い精神性を感じるかどうかは別問題ですが。

ミニマルでなくても「作為性を感じない庭」にも魅力を感じます。それは茶庭(露地)のような人の手を感じさせない深山幽谷をそのまま表現したような庭です。ただ実際の茶庭は自然の景色を人工的(作為的)に作りますので、そこに作為性を完全に消すことはなかなか困難です。そのため、ほんとうに魅力のある茶庭(露地)が出来るのは作庭から何年も後になるのです。人間の作為性を時間という流れが洗い落とし、消し去るまで待つ必要があるのです。僕が設計した関の茶室の露地も、様になるのは何年も先になるのでしょう。

そんな時間の流れに洗われたような、作為性を感じない魅力的な庭はいくつもあります。ただその中でも僕が最も魅力を感じるのは西芳寺(苔寺)の庭です。人の手によって作られ守られてきたことは感じられるのですが、この庭には嫌な作為性を感じないのです。自然の樹木や石や苔や水が作り出した世界に人が少しだけ手を加えそこを守っている、そんな気配なのです。そんな空間が出来たのは禅僧でもあり稀代の名作庭家でもあった夢窓疎石の技量によるところが大きいのか、それとも時間のなせる業なのかは定かではありません。ただ、その苔むした庭を歩く時、日本庭園の究極の魅力を感じてしまうのです。

今までに多くの「庭」を見てきましたが、それを作った作庭家や建築家の技量の差は歴然でした。その差によって庭は陳腐にも秀逸にもなります。ただ庭は全てを人が作るわけではありません。人はごくわずかに自然を改変し、庭を創り上げるのです。そして自然がまた時間と共にそれを改変し続けるのです。優れた作庭家はそんなことも直感的に理解しているのでしょう。

TO