「機能主義」とは違う超機能主義もしくは極機能主義とも呼べるような建築も存在します。
それは石油コンビナートやセメント工場といった純粋に機能だけを追求した、建築家の美意識が介入しないアノニマスな建築達です。「工場萌え」という言葉がありますが、そんな究極の機能美を愛でる人達は昔からいました。作為的でなく偶然生まれた人工物の「美」、僕もそんなものに時として魅力を感じてしまいます。
作為的でない人工物の美、それは工場などの建築以外にも存在します。変電設備、人工衛星、時計の歯車、エンジン等々、これらの「機械」はそこに「美」を付加しようとする人間の意識が介入しないため、時として人智を超えたような「美」を獲得することがあります。作為性のない純粋な機能美といえるかもしれません。もちろん、機能を追求したものが全てその「美」を獲得するわけではありませんし、そこに「美」を感じない人達もいます。それでも僕はある種の機械達の中に、時として純粋な「美」を見つけることがあるのです。
「機械美」という機械が持つ美しさは20世紀初頭のアートの世界にも少なからず影響を与えたようですが、それは僕が言う「機械の中に見出す美」とは少し違うような気がします。僕が見出している「美」はもっと暴力的で、殺伐として、非人間的で、、、調和のようなものを感じさせない「物質」そのもののむき出しの純粋さのようなものかもしれません。建築家が建築を思考する時、意識的であれ無意識的であれ、必ずそこに美意識が介入します。その「美」には個人差こそあれ、調和、均整、旋律といった言葉があてはまるような人間を包み込む温かみがあると思います。しかし、機械の中に僕が感じる魅力は、そんな包み込むような「美」とは対極にある非人間的なものかもしれません。中途半端ではないヒューマンスケールを遙かに凌駕するような巨大なコンビナートや工場に、より深く魅力を感じてしまうのも、そんな理由からなのでしょう。
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