戦時中の1942年、坂口安吾は「日本文化私観」の中で小菅刑務所とドライアイス工場と軍艦の中に感じた「美」について、次のように語っています。
この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが一切ない。美というものの立場から付加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取り去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物は全て除かれ、必要のみが要求する独自のかたちが出来上がっているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なく歪められ、鋼鉄はデコボコにはりめぐらされ、レールは突然頭上から飛出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。そのほかのどのような旧来の観念も、この必要のやむべからざる生成をはばむ力とは成り得なかった。そうして、ここに、何物にも似ない三つのものが出来上がったのである。
坂口安吾と同じように、僕もまたこんな「超機能」「極機能」といえるようなものに魅力を感じてしまうのです。人間の作為性をはぎ取った物質そのものの構成の純粋性に「美」を感じてしまうのです。ただ、牧歌的な田園や里山、船が停泊する小さな漁港、古い街道沿いの街並み、そんなヒューマンスケールのアノニマスな風景にも、同じくらいの魅力を感じてしまうのですが...
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